第1話での“運命のセッション”を経て、新バンドTENBLANKとしてのスタートを切った朱音。第2話では、初ライブの高揚から一転、レコーディングという「本物の試練」に直面する。そこに描かれるのは、音楽の光ではなく”影”の部分。天才の隣で音を奏でることが、いかに残酷で、孤独で、でも美しいことなのか。その真髄が突き刺さってくる。
藤谷直季という男の音は、まさに呪いだ。
一音一音に魂が込められているがゆえに、周囲の人間はその熱量に焼かれる。朱音もその一人だ。何度も叩き直され、”まだ違う”と拒絶され続ける中で、朱音は「天才のとなりに立つこと」の意味を、身をもって知る。音楽は希望なんかじゃない。時にそれは人を突き放し、苦しめ、潰しにかかってくる存在なのだ。
けれど、朱音はその痛みに飲まれなかった。逆に、そこに自分の“使命”を見出していく。それは強がりなんかじゃない。むしろ、踏み潰されそうになる弱さを抱えたまま、それでも立ち上がろうとする強さこそが、朱音の核だった。
「私だけの音を見つける」——その決意は、もはや夢でも憧れでもない。彼女の生き様そのものへと変わっていく。どんなに否定されても、どれだけズタズタにされても、それでも自分の音を掴むまでは叩き続ける。それが朱音だ。それが彼女の選んだ生き方なのだ。
そして、そんな朱音の進化の裏には、真崎桐哉とのセッションや、藤谷と音楽プロデューサー井鷺一大との過去の因縁が強く絡んでいる。井鷺の「藤谷を返してほしい」という想い、そして藤谷の「井鷺を壊したのは俺だ」という罪悪感。そこにあるのは、音楽という名の戦場でしか語られない、人と人との深く痛ましいドラマだった。
かつての仲間を“壊した”という罪。その音楽が、どれほど強く深く誰かを動かし、時に崩壊させるほどの力を持っているのかを、藤谷は身をもって知っている。だからこそ彼の音は優しくない。完璧を求めるのは、破滅への恐怖と隣り合わせなのだ。朱音に厳しいのは、同じ過ちを繰り返さないための防衛本能かもしれない。でも朱音は、その壁を叩いて、揺らして、超えようとしているのだ。
そして迎える、朱音の”OKテイク”。
「これでいい」ではなく、「これが私だ」と叩けたその瞬間——藤谷が、はじめて朱音の音を受け入れた。その音には、痛みも、情熱も、孤独も、すべてが詰まっていた。バンドとしての“最初の音”が、確かに鳴り響いたのだ。あの一瞬のために、彼女はすべてを懸けてきた。全否定されても、自分を信じることをやめなかった。その姿は、視聴者の胸に強烈な火を灯したはずだ。
第2話は、朱音というキャラクターが“音楽”と“自我”を重ね合わせ、ひとりの演奏者として覚醒する物語だった。直季との関係性も、単なる指導者と生徒ではなく、“互いに救い合う同志”としての熱を帯び始めている。音楽で繋がった関係性は、ときに言葉以上に深く人を理解し、傷を共有し、救ってくれる。そこにあるのは、恋とも友情とも家族とも違う、唯一無二の絆だ。
「ジョン・レノンみたいにいなくならないで!」
朱音が叫んだこのセリフは、直季への恋慕であると同時に、自分が守りたい”音の居場所”への渇望でもある。愛と音が重なり合い、やがてセッションとなる——その過程を、ここまで濃密に、そして切実に描いた音楽ドラマが他にあるだろうか。
第2話を見終えた今、胸に残るのは、ただの希望ではない。「痛みを越えて、それでも鳴らしたい音がある」。その一点だけで、人は前に進める。そのことを、このエピソードは私たちに教えてくれる。
音楽は癒しではない。時に刃となり、呪いとなり、人の人生を狂わせる。それでもなお、人は音楽に惹かれてしまう。なぜならそこには、生きている実感があるからだ。自分の内側から生まれた音が、誰かの心に届いた瞬間。その一秒のために、人はどこまでも自分を削って音を鳴らし続ける。
朱音は、もう誰の影にもいない。自分の音を、確かに掴んだのだ。その音が、これからどこまで届くのか。何人の心を震わせるのか。そこに待っているのが喝采か孤独か、それはまだ誰にもわからない。
でもはっきりしているのは、朱音はもう止まらないということだ。
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